九十九折れ階段


 弥栄神社は津和野川の土手沿いにあり、麻子は神社の境内を真っ直ぐ突っ切ると、《名物いなりずし》という看板を掲げている美松食堂の前に出た。
 すると、境内に入る前には麻子の前を歩いていた、白い杖を持った初老の男が、ちょうどこの美松食堂の前に差し掛かったところで、盲目の人に気を使わせては悪いと思った麻子は、その人を先に歩かせるよう、止まってやり過ごした。
 山口線のガード下を過ぎると、町道の方は弥栄神社の建物を回りこむようになっているので、覚束ない足取りでゆっくり歩いてきたその男には、時間が掛かったようだった。
 麻子はしばらくそこに立って、その男の後姿を追った。そして、5、6メーター距離を置いて、麻子はゆっくりと後を追った。
 側に水路があるから、気をつけるのよ・・・。見ていると、あまりにもふらふら歩くもので、麻子ははらはらしながら、何度も心の中でそう叫んでいた。
 美松食堂から20メーターほど先に、用水路をまたぐ2メーターほどの小さな橋があり、最初の大きな朱塗りの鳥居が橋の袂に立っている。稲成神社の参道はそこからになるようなのだが、その小さなコンクリート製の橋は、町道よりも15センチばかり高くなっていて、麻子はその男が、その段差に気付けばよいが。― と気になったが、案の定、男はそこで躓いてしまった。
 一瞬麻子は、行って手を貸そうかとも思ったが、すぐに男が立ち上がったので、麻子は立ち止まって見るにとどめた。
 
 だけど、どうしてこの人はこうも覚束ない足取りなのに、一人で神社に上がろうなんて無茶をするのかしら。付き添いの人はいないのかしら。― 麻子はそう思い周りを見回したが、後ろから誰かが追いかけてくる様子もなかった。
 見上げれば、急斜面に朱塗りの鳥居のトンネルが、何度も折れ曲がりながら、はるか上の社殿に繋がっている。健康な麻子でも、これを今から歩いて上がるのかと思えば、少し気が重くなるような参道なのに、この男は杖だけを頼りに、一人で上がろうとしている。麻子にはそれが少々無謀にも思えるのだった。
 ところが、その橋を渡って20メーターばかり進み、最初の階段に差し掛かったとき、男はまた階段に躓き、今度は膝頭をうったようで、蹲って暫く動こうとしなかった。
 さすがにそれを見た麻子は、走って男に近づくと声を掛けた。
 「大丈夫ですか。どこかお怪我でもされたのですか。」
 男は急に声を掛けられて、少し戸惑った様子だったが、申し訳ない。大丈夫ですから。― そう言って立ち上がろうとしたが、ふら付いてまた倒れこみそうになったので、麻子は手を差し伸べた。
 
 「どうも昔の記憶を頼りにここまで歩いてきたのですが、私の記憶が当てにならないのか、それともまったく変わってしまったのか。どうもいけません。本当に申し訳ない。」
 男はそう言って頭を下げた。
 麻子はその男が大丈夫そうなので手を離し、汚れたズボンの裾を払ってやった。
 「差し支えなければ教えてほしいのですが、今私が躓いた石の階段は、二段になっていませんか。」
 「いえ、今は二段にはなっていませんが、以前は二段だったようですよ。今あなたが躓いたのは、5センチ位頭を覘かせている一段目の石の階段ですから、この参道を工事した時に、向こうの橋の高さまで道が上がったんでしょうね。」
 「そうですか。杖でその小さな段差を見つけられませんでした。やはり色々変わっているんだ・・・。ところで、左手に喜楽屋さんという食堂があったのですが、それは今もありますか・・・。」

 麻子は、もうすでにその喜楽屋という食堂は営業していないことを教えてやると、男は、今自分が躓いた階段のところに大小の古い鳥居があるか。参道の右手に、ドーナツの形をした池はまだあるのか。― 教えてほしいというので、麻子は見たままのことを教えてやった。
 「そうですか。そういったものは変わらないであるんですね。少しホッとしました。・・・いや、見ず知らずの人に足を止めさせた上に、時間を取らせてしまいました。本当にありがとうございました。どうぞお先にお上がり下さい。」
 男はそう言って、また深々と頭を下げるのだった。
 麻子は、それでは気をつけて。― と言って、階段を4、5段上がりかけたが、立ち止まって振り返ると、暫く男の様子を覗った。
 そして、どうせ時間もあるし、まァいいか。― そう思いなおした麻子は、そのまま引き返すと、男の手を取り、自分の肩に掛けさせた。
 「よろしかったらご一緒しません。私の方は時間も充分ありますし、あなたさえよろしければ、私は一向にかまいませんから・・・。」

 麻子の急な申し出に、最初は男も考えているようだったが、暫くすると、では、ご好意に甘えさせてもらいます。― そういってまた深々と頭を下げるのだった。
 「大変失礼なことをお聞きしますが、誰かお連れの方はいらっしゃらないのですか。御目が不自由ですと、こんなに厳しい階段を一人でうえまで上がるには、無理があると思うのですが・・・。」
 男は二三度頷くようにして微かに笑ったが、今回だけはどうしてもこの階段を一人で歩いて上がりたかったし、昔よく遊んだ所なので土地勘は残っているだろうと思い、連れの者には上まで迎えにきてもらうだけにした。― と言った。
 宿で聞いた話だと、上の社殿の所まで自動車で上がれるようになってから、最近はめっきりこの階段を歩いて上がる人は少なくなったということだった。
 そのせいか、下から上がって来る人の気配も、上から降りてくる人の気配も感じられず、暫くの間、朱色のトンネルの静寂の中に、麻子とその男の階段を踏みしめる足音だけが響いた。
 「今日はどちらからおいでになられたのですか。よそから来られて、お一人でこの階段を上がられる方も、今は少ないらしいので・・・。」
 日本人なのに外国からと言えば、こんな田舎の人は驚くかもしれない。― と、ふと思ったが、この人も今は津和野に住んでいる人ではないんだと思い、正直にアメリカからだと答えた。
 「今回は娘がどうしてもと言うものですから、娘と二人旅なんですよ。勿論津和野は初めてですが。」
 
 麻子は、目の不自由な男の歩いて上がれるペースを考えながら、階段を上がっていたが、麻子がアメリカと言った時に、男が一瞬立ち止まった気がして振り返った。
 「どうかされましたか・・・。歩くペースが少し速いですか・・・。」
 「・・・いえ、そんなことはありません。大丈夫です。」
 そう言って男は暫く黙り込んだが、階段を50メートルほど上がって、最初の折れ曲がりまで来た時、男が思わぬことを口にした。
 「実は先ほど・・・。と、言っても30分ほど前なのですが、津和野大橋の袂で連れの車から降りまして、信号が変わるのを待っていました時に、一緒に渡ろう。― そう言って手を引いてくれたお嬢さんがいます。別れ際に、ありがとうといいましたら、ダッツ・オーケー。大丈夫・・・、バイバイ。― そう言ってさっさと行ってしまわれましたが、日本語ときれいな英語の発音がチャンポンだったので、もしかしたら、あれはお宅のお嬢さんでは・・・。」
 「えッ・・・、そんなことがありましたの・・・。」

 麻子は、1時間半ほど前に自転車を借りて、乙女峠のマリア聖堂を見に出かけたスミレのことを話した。
 「その後で、森鴎外の旧宅にも回ると言っていましたから、たぶんそれは内の娘ですわ。」
 「おォ、そうですか。私は偶然にも、あなたがた親子に助けられた訳ですな。それは何とお礼を言っていいか・・・。くれぐれもよろしくお伝え下さい。」
 そう言ってまた頭を下げるので、麻子は少し複雑な気持ちになった。この人は先から何度見ず知らずの私に頭を下げただろう・・・。― ハンディを持つ人達は、どうしても自分でできない事は、健常者に頼らざるを得ない。その度にお礼を何百回、何千回と言い続けてきたのだろうから、特にこんな謙虚な人柄の人の心情を思うと、辛い気持ちにさせられるのだった。
 「娘は当然なことを、そのまましただけでしょうから、どうかお気になさらないでくださいね・・・。」
 麻子は肩に添えられた男の手の温もりを感じながら、もう私には頭を下げないで。― そう心の中で呟いていた。
 


 この階段は、最初左手に向かって50メーターほど上がり、折れて、また右手に向かって50メーター上がる。
 右手に向かって少し上がると、上り切ったところにそれほど大きくない社が見えてくるのだが、この頃から男の息使いが少し乱れてきたように麻子には思えた。
 目の見えない男が躓かないようにと、極力ゆっくりしたペースで歩いてきたので、麻子にはまったく疲労感などなかったが、それにしてはこの男の疲れようは変だ。― と麻子は気になりだした。
 「もう少し上がったところに社があります。あそこで少し休みましょうか・・・。少し呼吸が乱れているようですが・・・。」
 「・・・いえ、大丈夫ですよ。・・・なんでしたら、私はここで少し休んでいきますから、・・・あなたは先にお上がり下さい。」
 麻子は、どうしたものか。― と考えたが、やはりどうしてもこの男を置いて行く気にはなれなかった。
 そして、その社に着くと、麻子は男を社の庇の下の階段に腰掛けさせた。
 「飲み物でもあればいいのですが、あいにく何も持ち合わせていません。もう一度下に下りて何か買って来ましょうか。」
 「いえいえ、・・・大丈夫です。・・・飲み物でしたら、この上の、もうひと折れ上がったところに茶店が・・・。ハハハ、たぶんまだあるでしょうから、・・・そこで一休みしましょう。」
 そうなのか。― と思い、麻子は男の側に腰を下ろした。

 それから麻子はゆっくり男を観察した。
 ここに上がってくるまでは、相手が盲人なので、そんなにじろじろ見ることに躊躇いがあったが、二人きりになるとそんな気遣いも必要なかった。
 普通健常者と話すと、お互い顔を見て話をするので、相手の顔は自然と観察できるが、盲人を相手にすると、どうも勝手が違っていて、こちらが相手の顔に向かって話しかけても、殆ど前を向いているか、あるいはこの男のよいうに、多少俯きかげんになって話されたりするので、なかなかすぐには、その人の人相までは読み取れないものだ。― と麻子は思った。
 おまけに、この男は白髪まじりの長髪で、口ひげと顎鬚も伸ばしている。その上、ニューヨークハット製のサファリハットをすっぽり被り、お決まりのサングラスという出で立ちなので、なおさら人相を判らなくしていた。
 ただ、先ほどからの呼吸の乱れはなかなか収まらず、顔色の悪さだけは見て取れた。
 それに、すこしやつれている感じも気になった。

 それから麻子は着ている物にも目をやった。
 バーバリー製のチェックのシャツに綿のパンツを穿き、肩から襷がけに本皮のそれほど大きくないショルダーバッグを掛けていて、それほど貧相な出で立ちではないな。― と思ったが、よく見ると、相当どれも使い込まれているようで、シャツの肩口には、おそらくこの男が自分で繕ったような不揃いな縫い目があるし、少し付け位置のずれた色違いのボタンもふたつあった。
 しかし、かといってそれで不潔感がある訳ではなく、長髪にはちゃんとブラシが掛かっているし、口ひげや顎鬚もきちんと手入れされている。それに衣類もよく着込まれたとはいえ、洗濯もいきとどいているようだった。
 もしこの人が盲人でなければ、サンタモニカでよく見かけるような、ちょっと生かした年配の画家さんていう雰囲気ね。でも、何か・・・、どこかでこんな感じの人を見たような気もするけれど・・・。それにしても肩の綻びも自分で縫っているようだし、お世話する人はいないのかしら・・・。― 麻子は自分が何をしているか相手に分からないのをいいことに、勝手に色んなことを想像するのだった。
 「・・・今私達がいるこの場所から、・・・津和野の町は見えますか。」
 その時だった、男が急にぽつりと、そう麻子に問いかけてきた。
 「・・・えッ、・・・あ、はい。何故だか周りの木が切り倒されていて、よく見えますよ。」
 麻子は急にそう聞かれて、少し慌てた。

 「・・・そうですか。周りの木が切られているんですか・・・。昔はうっそうとした木立の中に、この鳥居のトンネルがありましてね。・・・少し暗い感じもしたんですが、それでも子供の頃の私には、物凄く神秘的だったんですが・・・。そうですか・・・。」
 男はそう言うと、行きましょう。― と言って、ゆっくりと立ち上がった。
 麻子は、体の方は大丈夫ですか。― と男に聞いたが、男は、えェ。― と答えただけで、なにもそれ以上言わなかった。
 それから暫く、二人は黙って歩いた。
 鳥居と鳥居の隙間からこぼれる、5月のまだ柔らかい光が、二人が一歩一歩歩む石の階段に、幾重にも重なって差し込んでいた。そして、静寂の中に、鶯のさえずりが時折聞こえるだけだった。
 麻子はさっき見た、男の肩の綻びのことを考えていた。今頃の日本で暮らす盲目の男が、どうしてそんなにまで厳しい生活を強いられなければならないのか・・・。今の日本は、まだその程度でしかないのだろうか・・・。いや、それとも年配者なので、物を大事にするという気概でそこまでしているのか・・・。しかし、ハンディを持った人には、誰かが手を差し伸べるようでないと、この繁栄も実のあるものとはいえないだろうに。― とめどなくそんなことを考えていた。
 「あのォ、こんなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが、目はいつから悪くなられたのですか・・・。どうもお聞きしていますと、以前は見えておられたようですが・・・。」

 「・・・はい。・・・もうかれこれ3年になるのですが、緑内障にやられまして・・・。病院の検査で気付いた時には、すでに症状がだいぶ進んでいたようで・・・。早く気付いていれば、・・・何か治す方法もあるようなのですが、ちょうどその頃手がけていた仕事が、・・・なかなか思ったように進まなくて・・・。病院にいくことまで気が回らなかったのと、確かに目に違和感を感じていたのに、・・・その内治るだろうと甘く考えていたのも失敗でした。・・・色々手は尽くしてみたのですが、2年前には、・・・もう殆ど見えなくなってしまいました。」
 アメリカだとこんな時、それは悪うございました、お気の毒に・・・。そんな言葉が英語で、なんの躊躇いもなく口をついて出てくるだろうに。― と思ったが、さすがに日本語だと、こんな時に返す言葉を探すのは難しいものだと麻子は思った。
 「・・・そうなんですか。・・・で、ご家族の方はご一緒に・・・。」
 「・・・いえ。長年一人身を通してきましたので・・・。ハハハ・・・、そうですね・・・。もし誰か側にいれば、・・・もっと違ったことになっていたかもしれませんが、・・・私の甲斐性のなさで・・・。」
 あまりにもその言い方に力がなかったので、麻子もそれ以上そのことに触れる気にはならなかった。



神様の贈り物


 次の折れ曲がりをまがるとすぐに、男が言ったように茶店らしきもが見えてきた。
 下から見ると、この茶店はそれほど目立たないが、みやげ物なども置いているし、右手の奥は十畳ばかりの食堂にもなっているようだった。
 「茶店は今も営業されているようですよ。お疲れでしょう。さァ、何か飲み物でものみましょう。」
 麻子はそういうと、右手の食堂に入る引き戸を開けようとしたが、中に人影は見られなかった。
 「あら、誰もいないのかしら・・・。変ねェ・・・。」
 正面には、神社の社務所と同じ作りの、たたみ一畳ほどの陳列スペースあり、みやげ物や、ここがお稲成さんで狐を祭ってあることから、お供え物のあぶらげなども売られているのだが、そのどちらにも人の姿は見られなかった。
 「今、誰も居られないようです。そこにベンチがありますから、とりあえず座って休みましょう。」
 麻子は男をベンチに座らせると、もう一度店の奥に向かって呼びかけたが、やはり何の返事もなかった。

 「・・・私達がここまで上がってくるのに、・・・誰一人出会うことがありませんでした。やはり、・・・この階段を使う人が少なくなって、店の人も暇なんでしょう・・・。いくら田舎町といっても、そんなに長く店をほったらかしにはできんでしょうから、・・・暫くすれば帰ってきますよ・・・。」
 男はそういって少し微笑んだように見えたが、その後で少し咳き込むのだった。
 「せめて水でも貰えればいいのですが・・・。」
 ベンチに深く腰掛けて、背中を丸めて大きく肩で息をしている男のことが、麻子は心配だった。
 「・・・待っていてください。水を取ってきますから。後でお詫びをすれば、水くらい許してくれるでしょう。」
 麻子はそう言うと、食堂の方に入って行き、すぐにコップに入れた水を持って帰ってきて、男にコップを持たせた。
 男はゆっくりとその水を飲み干し、肩で二、三度大きく息をすると、落ち着いたのか、コップを両手で抱え込み、暫くじっとしていた。
 「ありがとう・・・、ございます・・・。おかげで少し楽になりました。」

 麻子は、その様子をじっと側に立って見ていたが、どうしてこんな体で無理をするのだろう。やはりこの人はどこか体でも悪いのかしら・・・。― と思わずにはいられなかった。
 ・・・でも、見ず知らずの初対面の人間に、こんなに気を使ったり、気をもんで世話をしてる私も、よく考えたら珍しいかな・・・。どうしてこんな気持ちになっちゃたんだろう・・・。― 麻子は、この男と出会って、ほんの20分か30分の間にしたことや、もしこれがアメリカだったら絶対にしないことをしている自分が不思議だった。
 「・・・失礼ですが・・・。あなたはアメリカからおいでになったと仰いましたが、・・・アメリカのどちらにお住まいですか・・・。」
 もしこの男の目が見えていたなら、この時側に立って、自分をじっと見ている麻子の眼差しが、他人を見ているそれではなく、子供を見ているような、優しい眼差しで向けられているのだと分かったはずだが、なにも分からない男は、静かに顔をあげると、おもむろにそう尋ねた。
 「えッ、・・・えェ。私はアメリカからです。アメリカのロス・エンジェルスというところに住んでいます。ご存知ですか、アメリカのこと・・・。」
 麻子は自分のことを聞かれて少し驚いたが、静かな口調でそう答えた。
 
 「ご主人は、・・・ではアメリカの方で・・・。」
 「はい・・・。・・・ですが、3年前に亡くなりましてね。・・・それで最近ではこうして旅行をするのも、娘と二人だけなんですよ。」
 「・・・そうですか。それはお気の毒に。・・・では、今はあちらでリタイヤされて、悠々自適な生活を送られているご身分ですか。」
 「ホホホ・・・、そうだといいのですが。私もあちらで自分の仕事を持っていまして、そうもいかないのですよ。」
 「・・・おや、アメリカでご自分の仕事をお持ちとは、・・・それは、・・・相当素晴らしい才能でもおありなんでしょうな。」
 日本に帰国して、アメリカで仕事をしているというと、決まってこういう言い方をされることがしばしばだったが、かといって、それで麻子は悪い気にはこれまでならなかった。
 「もうアメリカに渡って30年少しになるのですが、建築のデザイン関係の仕事をしていまして、今は小さいながらも、自分のオフィースを構えています。」
 「建築の・・・、デザイン・・・。」
 男が何に驚いたのか― 麻子はしいて気にも留めなかったが、男はそれ以上口を開こうとはせず、コップを握り締めて黙り込んでしまった。
 

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